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50年以上前の学生

その1 中学、高校から大学へ

市立の中学校に入り。500   人中150番台から頑張り、卒業間際に10番以内に躍り出た。しかし茨城県一の高校は目指せるかも知れない。身長が伸び悩み、「気を付け」では手を伸ばすのではなく、一番先頭で腰に両手を当てた。

記憶では153cmだと思う。女の子によく馬鹿にされたなあ。

水戸一高
水戸三中

 

 

 

 

 

 

 

高校受験では、これまでにない順位で合格できた。これはまぐれだろうか。しかし生徒は激戦を勝ち抜いて来ただけにそれなりに秀才だらけだった実は水戸の高校では数学が特に悪かった。数学の先生に言われたのは

「最初に全体を眺めて、そしてできそうもない問題を最初に思い切って捨てろ」というものだった。

これを守ったら5問中2問が正解で40点は取れた。40点は低いかと思われるかも知れないが40点は実は平均点だったのである。これで自信がついたのだ。

高校1年から2年に進級するときに、茨城県一番の優秀高校から福島県一番の有名な進学高に転校した。父の転勤理由に伴うものである。勉学のみならず野球も強かった。通学は無理だし下宿もできなかった。理由は軽い病気がおきたのだ。医者のいうには腎臓が悪いと。塩分なしの醤油などまずい食事には参った。

のちに判明したが、腎臓病は誤診であり運動をすると尿にたんぱくが混じる起立性たんぱくと言い、尿にたんぱくが微量混じる程度のものであった。それよりも大きな問題は転校直後著しく精神的に落ち込んだ。

髪の毛が一気に抜ける直径500円玉の部分が一気に抜けるのだ。治療は太陽灯をあてるのと、塩でこすり、与える対症療法。精神的な治療は行われない原始的なもの。精神的なケアはしないのだ。医学のプアさが分かる。

4月といえば桜が満開だった。転校直後にひとりさみしく校庭の隅で桜を背景に聞いた構内放送は「アンジェリタ」も記憶にある、哀調のある曲であるいまでもインターネットで聞くことができる。

福島県一番の進学高は2年にはすでに3年の中ほどまで前倒しで進んでいた。これには驚き!

追いつくはずがない。強烈な進学校である。

中には90CCのスポーツバイクCS90で来ている生徒もいたな。銀色のフェンダーがまぶしかった。自分は親に買ってもらった頑丈な自転車で通学していた。

CS90
東北大学
磐城高校

 

 

 

 

 

 

 

 

微分積分を独習できるはずがない。過度の焦りは精神の病に拍車をかけた。それでも父は何が何でも国立一期校を目指せと父に期待された。意見尾対立でとっ組み合いの喧嘩が最後だったなあ。殴り合いに近いかもしれない。

それでも仙台にある国立一期校を受験しに出向いた、前の日にはまれにみる大雪に見舞われた。ぐっしょりになった靴を炬燵に入れてくれた貧しい親戚の気持がうれしかったなあ。のちに親戚のお姉さんはキリスト教へと進んだのである。

福島県のいわき市に戻り、教師に会ったときの質問され「これはこのようにして解きました」と言った瞬間の先生の顔のこわばりを見逃さなかった。自分の解法は完全に間違えていたからである。もちろん不合格。英語と社会はできたから数学さえできれば行けたかも知れない。あくまでも甘い評価だ。

高校には予備校が付属している。おまけになぜか男女共学だ。一浪後、目指したのは別な一期校である。全国統一模擬試験で全国5番に入れた。合格可能性も95%以上出た。目指したには「農業機械工学科」でコンバインハーベスターなどの機械を未開発国の農場をつくるものだ。夢は未開発の国で、農業の機械化だった。

新潟大学
東京電機大学
コンバインハーベスター

 

 

 

 

 

 

 

しかしまたしても不幸が襲い掛かる。良くなかったかぜをひいたのだ。市販の風邪薬を服用したら、睡眠薬が入っているのか意識が朦朧とした。結局試験が3日あるところ、1日しかできず。試験官いわく「試験は一回しかないんだよ」ホテルで休んでから磐越西線、磐越東線で帰途につく。駅に迎えに来てくれた父親は不思議と怒らなかった。滑り止めに受けた東京の私立工業大学には行かないで、もう1年浪人するといったが、

父親は「私立に行け。金のことは心配するな」と諭してくれた。

最初は松戸に下宿したが、あまり環境は良くなかった、南京虫にも食われた。南京虫は二箇所ずつ跡が残るのですぐにわかる。東京の大学に入ったら、すぐに円形脱毛症に見舞われた。東京のシティーボ-イにはなじめなかったのだろう。

おそらく訛りと当時のファッションIB(アイビー)ルックになじめなかったのだろう。望遠鏡などの設計をする「応用工学」の試験で零点をとった。これではいかんと夏休みに自宅で毎日8時間勉強した。最初の試験で満点を達成して、一番に躍り出た。周囲の目が変ったことに気が付いた。友達が電気主任技術者3種を受けようと誘いがあり。勉強を開始。試験前日は徹夜までした。明け方に方太陽のひかりをみながら、問題がいまだに解け自分がいた。果物ナイフを胸にあて「死ねば楽になれる」とも思った。しかし不思議にも合格したのである。のちにこの国家資格を生かせる場面は出てこなかった。

2年生から浦和の姉の家にやっかいになった。小さな子供の勉強も見た。仕送りは月3万円と決めて残りはバイトでしのいだ

浦和の姉はヤクルト配達もやっていて、中古のバイクCS90をやっと手に入れた。免許の無い自分はバイト先の兄ちゃんに運転をまかせて上野から浦和までタンデム走行であった。上野から浦和に向かう途中「馬力はどう?」と何度も聞いたことを覚えている。90ccに二人乗りだから。パワフルさ感じはないはずだ。それでもうれしくて、休みにはオープンリールのカセットテープレコーダーをくくりつけ、郊外で聞いたものだ。グループサウンズ全盛期の頃だった。姉が仕事をしていた関係で厚い電話帳を満載したリヤカーを得意げに牽引したことがあった。

いなかもんで寿司屋、喫茶店にも行ったことがなかった。友達に連れられて、色々と覚えた。

お金を稼ぐためにレストランのボーイや神田駅での押込みなどのバイトもやったね。

キオスクのお姉ちゃんにちょっかいも出した。

レストランでは食事代が無料、神田駅では洗濯が無料でできたな。

神奈川の友人と十和田湖畔一周。湖上では東京の若い女性にナンパされたことがあったなあ。好みでは無いのでパスしたけど。奥入瀬もキャンプした。地面が冷たく眠れなかったことを今でも覚えている

岩手の鍾乳洞では。天然水がおいしくて飲みすぎ。なんとバスの後部座席でジュースに空き缶にこっそりしたことを覚えている。

別の友人が「おかねを借りてアメリカに遊びに行かないか?」と誘われたが,決断できずに行かなかった。

これは後悔している。

ここでまた不幸が襲う。卒業1ケ月前に、下宿が全焼して2人死んだのだ。下宿の1階では可燃性接着剤をチューブに小分けする家内工業をしていた。出火は石油ストーブを蹴飛ばしたみたいだ。火災保険に入っていないとのことで、もらったものは日赤から毛布一枚のみ。新品のオーバーコート、本、写真など全てを失った。親切な学生がいてすぐ裏の下宿に入れたのはラッキーであった。幸い卒論関係は学校のおいてあり難を逃れた。

結局、学校は一番で卒業できたのである。卒業式では国立一期校に入れなかったが、私大を一番で卒業でき、火事にも見舞われた自分を思いだし、涙が止まらない自分がいた。

就職は本来ひたちなか市の日立系列を目指していたが、ご本家の日立製作所本社に入れたのである。それから50年経ってしまった。

続編を作ります。

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